アナウンサー物語(自伝)

中学時代

中学は地元の公立中学に入学。
部活は”わらべ遊びクラブ”に入部した。
このクラブは、けん玉、ベーゴマ、メンコたまにゴム跳びをやったりするクラブだ。。
なぜか、メジャースポーツでも、マイナースポーツでもなく、あえて”けん玉”に没頭。(笑)
おかげで、今では”けん玉一級”です。

はっきりいって、成績は中の下。
そして、人と同じだけやっても全く成績が上がらない。
もともと、人並みの頭の良さが、自分にはないことを認識していた。
何をやっても人並み以上はできない。
運動神経に至っては人並み以下だ。
では、自分のとりえは何なんだろう。
考えたが、自分にはとりえなど1つもない。(強いて言えばけん玉くらいか?)

そこで、幼き村上少年は考えた。
先天的なとりえが全くない。
それならば、後天的にとりえを作っていくしかない!

と決意を固め、あることを始めた。

そう、それはほかでもない、“受験勉強”だった。

やれば報われる。勉強は裏切らない。そう信じた。
中学生活、勉強に賭ける。
3年後、慶応、早稲田の付属高校に入れば、モテモテの人生が送れるはず!
楽しい人生を将来送るためには、中学時代を犠牲にし、早慶に入るのがベスト!
これが当時の自分が導き出した結論だった。

タダでさえ凡人の自分が、早慶合格を目指す。並大抵のことではない。
だから、人の倍、勉強しなくてはならなかった。
塾に通いまくった。
中1、中2のときは週に3日。中3は、なんと週6日!異常だろう。
月曜以外はすべて塾!プロ野球の選手のような生活である。
しかし、自分は凡人。やるしかない。
勉強のしすぎで、1.2あった視力は0.1にまで落ち、メガネが欠かせなくなった。
肩が凝り、針治療にも通った。
目の使いすぎから来る頭痛で病院にも通った。
長時間座っているため、痔になったのも中学時代であった。

その結果、偏差値は70を越え、早慶合格ラインに届くまでになった。
中学3年の春の校内模試では学年で2位にまでなった。
やれば報われる。そう感じていた矢先にアクシデントがおきる。

中学3年の9月、受験前の大切な時期、まさに悪夢だった。
なんと、体育のバスケの時間に、左の鎖骨を骨折し、ギプス生活を送る羽目になってしまったのだ。
上半身ギプスでぐるぐる巻きの状態だ。
といっても、動きづらくて勉強ができないのではない。
なにしろかゆくて全然勉強に集中できないのだ!
(あのかゆさは、ギプスをはめたことのある人しかわからないだろう)
しかし、成績はなかなか落ちなかった。
まだまだ、かつての蓄積が効いていたのである。

しかし、中学3年の1月
目の前が真っ暗になった。
模試を受けると、なんと偏差値が55!!一気に15もダウン!
そう、3か月で、いままでの勉強の蓄積を使い果たしてしまったのである!

     I AM NOT WHAT I WAS。
この英語が、まさか悪い意味で自分に当てはまるとは、おもいもよらなかった。。
“人は、3ヶ月で、ほとんどのことを忘れる。”脳の研究の第一人者、エビングハウスの言葉である。

そして、いよいよ2月。受験だ。
あんなにすらすら解けていたはずの問題がほとんど解けない。。
なんと早稲田、慶応ともに全滅。。。。

ああ、塾に週に6日も通っていたのはなんだったのか。
呆然と立ち尽くしてしまったのを今でも覚えている。
唯一、合格したのは、一番つらい人生を歩んでしまいそうな、私立の進学校
しかも男子校だった。。。
女の子はいない。まさに大学受験オンリー。そんな学校だ。

楽しい人生を送るはずが、なまじ勉強に精を出してしまったがために、受験校にいくはめに。。。
楽しい高校生活など、想像がつかない。
せっかく中学生活を犠牲にしたのに、結局、得たものはさらなる苦痛ではないか!

絶望にくれた村上少年は、なんと卒業アルバムを燃やしてしまった
“思い出の詰まったものを、なんてことするの!”そう言って親は怒った。
しかし、考えてもみてくれ。
思い出などあるはずがなかろう。
親に強制されたわけでもない、自分で中学生活を犠牲にすることを選んだのだ。
なんのとりえも無い自分。だからこそ、勉強にすべてを賭けたのだ。
その結果が不合格だったのだ。

骨折は言い訳にならない。
結局は自分の精神力の甘さである。
そう思って,精神力の足りない、過去の自分と決別したかった。
だから、卒業アルバムは、村上少年の犠牲となった。。。

そのため、中学時代の写真は手元には一枚も残っていないのである。

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